先日、エベレストに無酸素・単独登頂を試みた栗城史多さんが亡くなった。
巷では「無謀な挑戦だった」など色々批判的なことが言われていた。
その批判に対して、とても違和感があったので書くことにした。
違和感は何か?
エベレストに無酸素・単独登頂を試みることは、誰が見ても危険に見える。
ではF1はどうか?300㎞/hを超える速度の車に生身の人間がむき出しで乗っている。
どう見たって危ないのに、なぜ多くの人は「あんな危険なことはすべきじゃない」という批判をF1ドライバーにしないのか?
この違いはなんだろう?
色々考えて行き着いた結論は、
未知の領域に踏み込む前に、下調べと十分な準備をして一歩を踏み出すことが『挑戦』
未知の領域に下調べも準備もないまま一歩を踏み出すことが『無謀』といえば違和感がない。
F1は、多くの人が見て、十分な準備と下調べをしていることが分かるため『無謀』ではなく少しでも早く走るための『挑戦』と捉えられる。
一方、エベレストに無酸素・単独登頂することは、どのような準備をしているのかも分からないし、見るからに準備できていなさそうだ!という先入観から『無謀』なことをしているように捉えられてしまう。
批判する多くの人は栗城さんがどれくらいの準備を重ねて、今回のアタックをしたのかは分からない。もちろん僕も分からない。
つまり、本人以外『挑戦』なのか『無謀』なのかなんて分からない。だからこそ周りの人が批判することに違和感があるのだと思う。
挑戦し続けることの大切さ
人類は、新しいことを知りたいという欲求があったからこそ進化したのは間違いない。
現状に満足してしまったら進化は望めない。
僕は、『挑戦すること』に対する欲求を抑え込むべきではないと思っている。
挑戦への歩みが止まった瞬間に人としての成長も止まる。
批判するのは簡単だけれども、挑戦し続けることは強い意志がなければ続かない。
『挑戦』なのか『無謀』なのか答えがないことを議論することは不毛な気がする。
批判が怖いからといって『挑戦』をあきらめるべきではない。
栗城さんが伝えたかったことはたくさんあると思う、僕は彼が『挑戦』に対して一歩踏み出す勇気を伝えたかったのかもしれないと思った。